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水俣病についてどう語るか
ご縁があってときおりお邪魔するようになった今日、考えたことというブログで、18日に開かれた「水俣病は終わらない・東京集会」についてのエントリーがあった。

ここで言及されている原田正純さんは、水俣にちょっと縁を持った人なら誰でも知っている、もと熊本大学の医師で、初期からずっと患者さんとともに歩んでこられた方だ。お話を聞きに行ければよかったなと、ちょっと残念。

ところでこのエントリーで筆者のtu-taさんがとりあげておられる問題(以下は上記ブログからの引用)

今日も患者さんから「こんなカタワにされてしまった」という発言がありました。この問題をどう考えたらいいのでしょう。

先日のエントリーでご紹介した『天の魚』についても、実は同じような問題がある。語り手の老人は、水俣病に冒された息子のことを「役せん(役に立たない)身体にちなってしもた」と嘆き、胎児性患者の孫について、「このじじばばより先に、杢の方に早よお迎えのきてくれらした方が有難かこつでございますと」と言うのだ。

その嘆き、その思いの深さは、もちろんこれ自体はフィクションなのだけれど、しかしひとつの「真実」だと思う。けれどそれをことばに即してだけとらえれば、「障害」を得ること「障害」を持って生まれたことに「マイナスの価値を貼り付ける」ことに、たしかに、なる。

だからといって、このセリフを削ってしまえばいいということにはならない。むしろ、この言葉を生かしながら、「マイナスの価値」でないものをどう伝えるか、伝えることができるのか、を考えていくべきなのだろう。

原田正純さんは、胎児性の患者さんに長くつきあってこられた立場から、「こういう子が生まれてしまうから(生まれないために)環境を守れ、公害をなくせ」というのではおかしい、と語っておられる。重い障害をもって生まれてきた人の「いのちの価値」が、そうでない人より軽い、ということはない。それは「軽くあってはならない」という「倫理」というよりも、「事実軽くないのだ」という「実感」として、私にもある。

そのことをどう語るのか。簡単ではないのだけれど、考えていきたいことだ。
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コメント、ありがとうございます。

「このじじばばより先に、杢の方に早よお迎えのきてくれらした方が有難かこつでございます」という言葉の重みというのはその通りかもしれません。それが障害児殺しにつながらない限りにおいて。

みなまたでは、このような言説が流布してはいるものの、障害児殺しというようなことはないように感じています。それを支えるいのちの尊厳に対するまなざしが生きているように思います。
 



ところで、引用されている原田さんの意見は、どこで述べられたものでしょうか?もし、わかれば、教えていただけたら幸いです。
tu-taさんコメントありがとうございます。

「天の魚」はほぼ『苦海浄土』のことばそのままなのですが、アンビバレンツというのでしょうか、また別の部分では、孫のことを「ものはいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子」と表現しています。
また、老人自身が水俣病の症状があり、実は自分の方が先に逝くことになる、と感じているようでもあります。
まあ、実際の演劇としては、このへんは、演者や観客の解釈のかかわるところが大きくなってくると思うのですが。だからこそ、「どう語るか」を問題にしているのでもあります。


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障害学とは??http://tu-ta.at.webry.info/200607/article_17.htmlで、いくつかの定義の引用をした。その続き。
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