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補遺・「学校」を巡って
前のエントリで触れた本の中で、著者のひとり貴戸さんは、大学に入ってから、「子どもが学校に行くことは一万年も前からあることみたいに思わされてきたけど、たかだか130年くらいのものなんだ」と知って、なぁ?んだ、と思った、というようなことを書いていて、それに付随して思ったこと。

「学校」というのは人が作った社会的な制度にすぎないし、学校に行くか行かないかは、善とか悪とかいう「倫理」の問題では全然ない。実際、この日本という国で「学校」という制度が導入されたのは明治になってから(学制の施行)で、しかもそれが社会にちゃんと定着するまでには数十年かかっている。なかなかたいへんだったわけです。

で、そういう「制度としての学校」を批判する論議はけっこう前からあって、たとえばイリイチの「脱学校の社会」なんていう本は1970年代に出ている。イリイチには「脱病院化社会」という著書もあって、いずれも、子どもを育てることや、病を癒すことが、制度化され、専門家の手に独占されることの問題点を説くものだった。

しかし、今、近代化された、あるいは近代化しつつある国家で、学校というシステムを廃棄した、というところはない。

それはつまり、「学校というシステム」は、近代社会、あるいは資本主義経済と、切っても切れないものである、ということを意味しているのだろう。
そして、今私たちがそのような社会経済システムの「中」にいる限り、学校システムそのものへの批判や、ホントはそんなものなくたっていいんじゃないの?という眼を持ちつつも、当面は「よりましな制度」を考えるしかないのかな、という気がする。

・・・以上、とりあえずメモとして。
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