少し前の新聞で、作家の高史明さんの文章を読んだ。昨今の「いじめ自殺」に関していろいろな人が書いた短文を連載する、という企画だったのだけれど、
高さん自身、ひとり息子が12才で自死している。その遺稿をまとめた『ぼくは12才』を出版してから、いろいろに悩み、ときには死を思いつめた子どもたちが、自宅を訪ねてくるようになったという。そしてひとつのエピソードとして、ある中学生とのやりとりが書かれていた。
その少女はやはり「死ぬこと」を考えていたのだけれど、高さんは、「君の頭は死にたいと思っているけれど、手や足はどうだろうか。君を支えている足の裏の言うことも聞いてみなさい」といいうような内容を話し、少女は帰っていった。しばらくたって、彼女からきた手紙には大きく足の裏の絵が描かれ、「足の裏の声が聞こえてくるまで、歩くことにしました」とあった、という。
素敵な話でしょう?
子どもだって、これくらい深くものを考え、表現することはできる。
「いじめ自殺」が次々に報道されて、おとなたちはいろんなことを言う。報道に煽られているんじゃないかと言う人もいるし、いじめに立ち向かう強さがなければ、などと言う人もいる。ゲームなどのバーチャル世界に親しんで、「死ぬ」ということの実感がわからないんじゃないか、と言う人もいる。
そんなに、子どもをバカにしてはいけない。
10才くらいにもなれば、子どもは自分の内面を見つめはじめ、「死」をも考える。おとなよりもずっと、深く考え詰める場合もある。
「いじめ」られている子どもだって、たたかっていないわけではない。たたかい続けてもなお、つらい経験がくり返され、出口のない気持ちになって、自死を思うのは、おとなと同じだ。
子どもの自殺を巡る報道のあり方に問題があるのは、その報道のしかたが、そういう追いつめられた子どもの、背中を押すように作用してしまうからだ。引き戻す力にならないからだ。そういう意味では、報道はおおいに考え直されねばならないと思うけれど、子どもたちが単純に煽られていると考えるのは、まちがっていると思う。
子どもたちは、一生懸命たたかい、考え、悩み、その果てに、他に方法がないと思い詰めてしまって、命を絶つ。
軽く死んでいくわけではない。
・・・と、そんなことを考えているところに、こんな話も。
中学生の声しつこいようだけれど、中学生にもなれば、自分のアタマでいろんなことを考える。先生の言うことを言うとおりになぞったりなどしない。
リンク先の飛幡さんも書いているとおり、
政府案に中学生が反対意見を述べただけで学校が威嚇を受けるという、ゆゆしき事態だ。いずれにせよ、「国民の声」をききたがっていた政府は、この自発的な中学生たちの声に誠意をもって答えるのが「教育的」な対応だと思う
というのが、ちゃんとしたおとなの考えかたというものだ、と思うのだが。
TBありがとうございました。
子どもをバカにするどころか、子どもの感性から「何かを教えられる」とアンテナを鋭くたてていかなければならない、と忘れがちになることを忘れないでいこうと思ってます。