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子どものリアリティ 学校のバーチャリティ(3)
さて、この本の第二章の終わりから第三章にかけて、著者はさらにいくつか示唆的な問題提起をしています。そのうち二つ三つにここで触れておきたいと思います。

まず、「二項関係と三項関係」ということ。
二項関係とは、人間同士が二人だけで、じかにとりむすぶ関係。生まれたての赤ちゃんと母親の関係に典型的な、互いが互いを見つめ触れ合うだけで、あいだに何もはさまない関係です。三項関係は、何かもうひとつの対象を共有し、何かを一緒に作り出していく関係。乳児と母親であれば、おもちゃや絵本を前にやりとりし、遊ぶような関係です。これができてはじめて、子どもは周囲の他者と多様な関係を結んでいくことができるようになります。
しかし、今、家庭でも地域でも、何かを共有しあうという関係は成り立ちにくくなっている。親は子を見つめ、子はそれに反発するしかなく、子ども同士もまた、二項的なむき出しの関係の中にあって、「つながっていなくちゃなんない」一方で常に関係に不安を抱き続ける。そこでは「喜びや楽しみの共有がしばしば排他性と結びついて、それによってしか互いの結束を確認できないということになりかねない。」・・・「いじめ」が深刻化し陰湿化する構造を、それはみごとに言い表しているように思います。

もうひとつ、学校という場での、教師と子どもとのコミュニケーションの「質」について。

ふつう、コミュニケーションは、「自分は知っているが相手は知らない世界」を相手に伝え、「自分は知らないが相手は知っている世界」をきく、そのようにしてお互いの空白を埋めあい、共有の世界を拡げていくはたらきです。
ところが、学校での教師と生徒の会話は、しばしばこれとは異質なものとなっています。

教師はしばしば生徒に対して「質問」をする。ふつう質問とは、自分が知らないことを相手にきく行為なのだけれど、この場合、教師は答えを知っている。つまり教師はその答えを知りたくて質問しているのではなく、生徒がそれを知っているかどうか「試している」のであり、生徒は相手が知らないことを伝えようとするのではなく、正解を「当てようとする」。
この<試す-当てる>というやりとりは、コミュニケーションとしては極めて特異なものであり、いびつなものと言わざるをえない、という指摘には、うなずかないわけにはいきません。

そして著者は、再度「バトル・ロワイヤル」に戻り、この小説の中で展開される惨劇を生み出す構図として、三点を挙げています。

一つは、子どもたちの生きる場の全体が、国家の定めた制度によって統制されていて、そこからは誰も抜けられないということ。(中略)子どもたちの生きる輪郭が、自分たちには見えないシステムによってコントロールされているという構図にまず着目しなければならない。(中略)

二つめは、このプログラムの単位が個人であること。(中略)徹底して個人を単位におとしめたところで、このプログラムは進行する。そこでは子どもどうし共有すべきものが一切捨象されて、たがいがむき出しの攻撃ー反攻撃関係を生きるしかない。

三つめは、子どもたちがみな、自分ひとり生き残る「将来」のために、この「いま」においてたがいに殺し合う関係を生きなければならないということ。(中略)バトル・ロワイヤルとは、<生きて○○をする>という、その<○○>をいっさい抜きにして、ひたすら「将来」のために「いま」の惨劇を生きるという、惨めな構図をその根底にもつ


筆者が指摘するとおり、これは今、子どもたちが、いや子どもたちのみならず私たちの多くが置かれている構図と重なります。子どもたちがこの小説にハマった理由は、そこにあるのではないか。

しかし、それだけではありません。

一方、この小説は、それを素直に読むかぎり、バトル・ロワイヤルの構図のなかにはめこまれた主人公たちが、ともにそこから逃れようもがく、その姿をテーマにしたものであって、多くの子どもたちが共感したのは、残忍な惨劇そのものではなく、むしろそうした場面であった可能性が高い。そうだとすれば私たちは、子どもたちのそのような完成にむしろ希望を見るべきではないのか。


『バトル・ロワイヤル』は私もなかなか面白く読みました。その時の印象は、巷間で言われるようなただ残虐なだけのものではないではないか、というもので、このような著者のとらえかたは、当たっている、と思います。

空疎な「将来」のために「いま」を奪われる、そのことに、著者は警鐘を鳴らします。明日身につくかもしれない力で今を生きることはできない。新たな力が生まれてくるとすれば、それはいまの手持ちの力を使って生きた結果である。発達は結果であって目標ではない。

子どもたちがひたすら将来に向けて力を身につけていく場として、学校を見るのではなく、子どもとおとながこの同じ時間と空間をともに生き合い、それぞれが手持ちの力を使って開いていく生活の場として、学校をあらたに展望できないものだろうか。


これはほとんど「祈り」のような希望に聞こえます。ただ、たとえば「障害児」と呼ばれるこどもたちが、そのように呼ばれないこどもたちと共に生きる、そんな教室の話を見聞きするとき、今でもそこに辛うじてこのような空間が生きているのを感じることができます。

今、教育は、ますますこうしたものとが逆の方向に向かおうとしているように見え、そのことはひどく気掛かりなことですが。
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